私はいま、恋をしています。
きっと私以外には何の関係もないことなのでしょうが、私にとってはとても大きなことです。私の頭の中はいま、【恋】という一文字で満たされています。
私を病に堕としたその殿方の名前は、寂兎智尋さんといいます。寂しい兎、というかわいらしい苗字にくすりと笑ったことが最初の切欠です。彼の名字から彼を知り、彼の顔を知り、そしていつしか私は彼を陰からそっと見守り始めるようになりました。
気になっていても声をかけることは出来ませんでした。彼が学校から帰宅するところをひっそりとついていく勇気はあったのですが、彼に話しかけることは何故か出来なかったのです。乙女というものはとても複雑で、繊細な生き物だとよく言いますが、どうやら私もその一人だったようです。それは、彼に恋をするまで知らなかった私の局面でした。
友人はそんな私の奇特な行動を知っていまして、何度か「見つかったら嫌われるのでは?」と私に忠告をしてきました。ですがそれでも私は、彼を陰から見守るだけで話しかけないという私のスタンスを貫き続けます。そしてそれは、彼に出会って十数年が経過した今でも変わらず続いているのです。…一つ変わったとするならば、眠っている彼を目の前でじっと見ているようになった、ということだけでしょうか。そうです、陰からではなくなりました。
二か月前、交通事故にあってからずっと、寂兎くんは白い病室の中で静かに眠り続けています。私は眠り姫を愛する王子様のような面持ちで、彼のことをじっと見つめていました。口づけて目が覚めて、それで運命の恋が成就するのは当然理想的なのですがーー…私の彼への愛が真実だったとしても、彼にとってはそうではありません。彼は私を知りません。目覚めて早々始まるのはおそらく結婚式ではなく絶対的な拒絶でしょう。私にとっての運命が彼にとっては違った、なんて私は突き付けられたくありません。
だから私はこのままでいいと思っていました。やっぱり生きている彼のほうがいいと思う私もいましたが、私は彼を近くで見ていられる現状を失いたくありませんでした。なぜでしょう、彼が目を覚ますとは一つも思わずに。
歪んでいると、間違っていると人からは笑われるかもしれません。それでも私は彼に恋をしています。
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