はじめて「それ」が僕の背後に憑くようになったかは具体的にはよく覚えていないが、気が付いたら「それ」は僕の背後にしがみついていた。
中学校、いや小学校を上がったころにはすでにいた。存在をなんとなく覚えている。ただ興味を持ったことはなかった。「それ」が僕に興味を持っていると知るまでは。
「それ」の名前は松嶋沙耶という。
高校に上がるころには流石に名前を認知していた。違うクラスにいる茶色の髪をしたごく普通の少女だ。噂では母親と二人暮らしをしていて、三つ下の弟が中学に通っていて、ハムスターを飼っていると聞いていた。成績は中の上、学年順位表で名前も見かけたことがある。運動は並以下でボール一つまともに投げられないことで有名だ。
僕が知っている彼女の情報はそれとあと一つ、僕をストーカーしている。以上。
なぜ僕に云年間も執着しているのかはわからない。ただ噂で「松嶋沙耶は寂兎智尋のことが好き」という話を聞いた。それでやっと合点が行った。いや、なんとなく前から気づいてはいたのだが、やはりそうか、と思ったのだ。松嶋沙耶は僕に恋している。悲劇的なことに、大層残念なことに。
迷惑を被ったことは何度かあった。ポストの中身を勝手に弄られた形跡を見つけたり、修学旅行先のホテルで僕が泊まっていた部屋から盗聴器が出てきたり、常識はずれな事態に巻き込まれたことは何度かある。正直通報も考えた。でもうまいことに松嶋沙耶がやったという証拠は出なかったのだ。だから、僕は誰にも言うことができずこの件はただの「妙な話」で終わってしまった。
さて十月を過ぎた現在。僕はいまだに松嶋沙耶にストーカーをされ続けている。日々通っている書道部が終わった午後七時現在、電柱の後ろにこれ見よがしに隠れている松嶋沙耶を横目に見て思うのだ。ああ、馬鹿な女だな、とただひとつ。
僕はため息を吐いて、「松嶋さん」と彼女の名前を呼ぶ。びくりと後ろの影が動いた。僕は振り返ってその影の手を引く、「きゃっ」という可愛さを装った声が夜空に響いた。
「せ、せきとくん」
「放課後は図書室で待っててって、何度言ったら分かるんだ」
「その、癖が」
「は?」
「癖が抜けなくて、…すとーかー、してたころの」
あきれてものも言えない。もはや五回目となるこの会話の流れに僕はうんざりしつつ、「早く慣れてよ」と松嶋さんの手を引く。らしくもなく笑いかけると松嶋沙耶は手で顔を隠した。照れた時の彼女の癖だと知ったのは付き合って間もないころだ。
松嶋沙耶と僕は恋人である。
松嶋沙耶が僕を好きだと知って僕から「付き合おう」と切り出したことがきっかけだ。松嶋沙耶は文字通り泣いて喜んだ。馬鹿みたいに。僕がお前のことなんて好きでも何でもないということを知らないで、「わたしもせきとくんがすき」なんてたわごとを吐いた。
あれから二か月、僕は松嶋沙耶に何度好きという言葉を吐いたかわからない。自分から「好き」と言ってみたこともある。松嶋沙耶に「好きって言って」と言わされたこともある。「好きだよ」と言われたから「僕も好きだよ」と返したことも多々あった。
だがそれで本当に「好き」だと思えたことは一度もない。
生まれて物心ついたときからそうだったのかは知らない。気が付いたらすでに僕という人間は「こう」だった。信用に最終的に応えてくれるのは自分だけだ。自分のことを一番に愛し、一番に信用してくれるのはやはり自分だ。自分が絶対であり、自分が至上なのだ。僕はそれを信じている。他人の愛なんていうものは、満ちれば欠けるものだ。
僕は松嶋沙耶がかわいそうで仕方なかった。松嶋沙耶は僕のことなど本当は好きではないのだ。松嶋沙耶は僕を追いかけている自分のことが好きなのだ。だからその幻想を終わらせてやりたかった。それが僕という人間が唯一あげられる他者への情けであり愛だった。満ちれば欠ける。松嶋沙耶の馬鹿みたいな執念も付き合って三か月もすれば終わる。そうなった時、松嶋沙耶は僕と同じような人間になるのか。それとも。って、ちょっと、見てみたくて。という興味で、 「どうして僕のことなんて追いかけているのか、気になって仕方がなかったんだ」なんて、本当でも嘘でも何でもないことをあの日吐いた。
「寂兎くん、その…手、絡めていい?」
「ああ、うん、いいよ」
ただ握り合っていただけの手を絡めるようにしてつなぐと松嶋沙耶は「えへへ」と(本当に「えへへ」と言って)笑う。僕は松嶋沙耶のことを見て、それらしく微笑む。不意に松嶋沙耶が空を見上げて「あ」と小さく言葉を吐いた。
「月、きれいだね」
つられて見上げてみるとなんでもない月がそこにあった。「月が綺麗ですね」とでも言いたかったのだろう、察して「そうだね、僕もう死んでもいいよ」とテンプレートを返した。松嶋沙耶が「好きだよ」と笑う。好きだよ、と言い返した。甘く煮詰まって腐りきった会話を夜空の下で繰り広げる。僕と松嶋沙耶は恋人である。
0コメント